隣のおっさんがくさい

世に対して不平不満を言いつつも何とか楽しもうと試みる弱者のブログです。

本来の自分になるために努力が必要っておかしくない?

http://orusoku.com/archives/24183444.html?p=1

 

------以下引用------

本来の自分であるってことは、自然体で実現できることであるはずなのに。発端は「自分が自分でないような気がする」とカウンセラーに行ったことだった。そしたらさ、タイトルの通りのこと言われたんだ「幸いにもあなたはもう虐待されていた頃のあなたではない。自分で自然な自分に戻るための努力をしましょう」って。そのまま生きていくのはしんどすぎるけど、しんどくない自分ってものがよく分からん。カウンセラーに言われた方向に努力して「理想の自分像」を演じ続けるのってそれ自体不自然じゃない?なんか必然性がないっていうか。理想の自分を演じるのも演じるでしんどくて八方塞がり。

 

-----以下考察-----

 

 

 

 

本来の自分ってなんだよって考えるから、話がややこしくなるんだとおもう。


理想の自分になろうとするのも自分だし
家で人には見せない自分も、自分である事には変わらないわけで。

この投稿者の、自然体であることが本来の自分であって、そもそも努力すること自体すごい不自然なことでは?という問いはすごいよくわかる。「これって、なりたい自分を演じてるだけじゃ?」ってので、それはそれで苦しくなるやつ。

じゃあ、そんな自分が楽になるにはどうしたらいいのって話なんだけど、自分としては科学的に考えるのと、自分を見つめ直す二つの方法を同時にやっていくべきだと思う。

 

科学的にってのは、そもそも鬱病とかもセロトニンとかドーパミン、ノルアドレナリンとかの脳内麻薬がうまく調整できてないから、漠然とした不安や動悸、極度の緊張、無気力に襲われるわけで、そこら辺調べて、脳の働きを正常に戻す方法を模索するべき。セロトニンの増やし方とかで出てくるけど

 

で、二つ目の自分の本心に気づくってのだけど人は、たびたび人の意見を、それが自分の意見だと勘違いしやすいってのがある。


親が、いい大学に行けって言ってきたとして、子供がそれをずっと聞いて育って、ある時から「自分は、いい大学にいきたいんだ」って思うようになった場合なんかもそう。
そうであるべきという価値観が外的要因になって、一種の自己暗示みたいになってる状態なんだと思う。「そう思いたい、そうあるべきだ」みたいな感じ


極端なことで例えると、本質がロリコンの人がいたとして、その人の中には、「私はロリコン」っていう自分と、「私はロリコンではない」と思いたい自分がいたとする。
で、私はロリコンではないと思い続けた結果、自分はロリコンが嫌いだって風に変化していって、最終的に、最初の自分とはかけ離れていくのなんかも、ストレスから自分を守るために、心がその部分に蓋をして、自分を騙してしまうことがあると思うんだよね。

つまり、本心に近づくってのは、「そう思いたい」っていう自分の心の動きに気づいて、もともと持っていた欲望に近づいていくことなんだと自分は思う。

それが、「働きたくない」とかでもそうだし、その欲望自体が社会的にいいか悪いかは別として、「そう思いたいってのを今までは自分の本心だと思ってたけど、自分は根の部分ではこう思ってたんだ」って、気付くための努力は必要なのかも

具体的には「〇〇をしたい」って思うたびに、これは本当に自分がしたいことか、周りに言われたからそう思うようになっただけじゃないのか、一個ずつ精査してけばいいんだとおもう

 

 

まぁ、適当に自分の意見を並べただけだけど

全部が全部、自分である事に変わりはないよね。

 

他者から見た自分なんかも、違うけど、それはそれで自分なんだと思うし

 

なんか、自分って言いすぎてゲシュタルト崩壊してきた、、

 

まぁ、自分が鬱病で悩む事になりそうなときは、これを元にやってみようと思ってますけどね

 

まぁ、うつ病になる前に自分は我慢がきかないんで、早々にその場を逃げ出すと思いますけど笑

 

自分も考えすぎって人からよく言われるので、うつ病になりやすい素質は持ってると自分で、危惧しているので、今回はこんなこともひとつ考えてみました。

 

まぁ、一言言えるのは睡眠不足だけは、気を付けましょうって話ですね。うつ病になる人の大半が、そこから不眠症になってとかで始まってる気もしますしね