隣のおっさんがくさい

世に対して不平不満を言いつつも何とか楽しもうと試みる弱者のブログです。

「過保護のカホコ」を見て考える、どこから過保護なのか


 

みなさん、こんにちは。

小学校・中学校と過保護を受けていたカオナシです。

 

今回は「過保護のカホコ」を過保護経験者が見た感想をお伝えしたいと思います。

 

まず、過保護は決して悪い事ではないという事です。

この記事を検索から見ている方はきっと、どこまでしてあげていいのか、自分の育て方は間違っているのか悩んでいる方だと思います。そんな人に対して過保護を受けていた私の立場から、少しだけお話しさせていただければと思い今回の記事を書かせていただきました。

 

まず、なぜ社会一般として「過保護」がいけないとされているのか考えていきます。

なぜ、過保護はいけないの?

「過保護のカホコ」の一話では以下の通りの過保護が見受けられました。

朝、自力では起きれず母親に起こしてもらう

着ていく服を母に決めてもらう

母の車で駅まで送り迎えをしてもらう

昼のお弁当をつくってもらう

面接先の地図を母に用意してもらう

 これはこれらの行為自体が問題なのではなく、過保護によってその人単体のポテンシャルを下げてしまっている場合が問題なんです。

自分で考えることをしなくなる

ここで一つ例えを出してお話ししますが、ペットの犬は、自分で餌を探すすべを知りません。時間になればご主人様がご飯を出してくれますし、自分で餌を探そうなどと考えたこともないでしょう。

もし、この犬がそれを考え始めるとしたら、それはご主人が死んだ時です。

その事実に気づいたころにはすでに断崖絶壁まで追いやられているようなものです。

これが悪いとかではなく、客観的事実としてこの関係性はご主人に対する依存で成り立っているという事です。

 

当人たちのいる世界が狭い空間、一つの家族、一つの村程度で完結しているのであれば「過保護のカホコ」の世界も成り立つでしょう。しかし、社会の常識としてはみんながみんな自分の面倒で精一杯な大人たちは、他者からの依存を大変嫌います。

「なんでそんなこともできないんだ」「少しは自分で考えろ」「あー、もういいよ。やっとくから」

極端な例を出しますが、今の世の中、手取り足取り、信号の渡り方を一から大人に教えてくれる人なんてのは稀です。(なんとなく例として信号を挙げましたが、深い意味はありません)

教えてくれたとしても、心の中ではきっと「なんでこんなことも分かんないの?」って思っているでしょう。

 

周りの保護によって、「自分で考えて行動する能力の欠如」を招きやすいため、それが過保護の問題として考えられます。

 また、失敗に対する免疫もなくなります。それについてはすごい参考になる意見があったのでここに載せます。(放任と過保護の違いは?という質問に対するアンサー)

人間は誰でも成長に伴って、成長痛と言われる痛みを経験します。
「あんな愚かな決定をしなければこんな辛い結果にはならなかったのに・・」という後悔の感情も人として成長するのには欠かすことのできない痛みです。 
それを「人生の勉強」とみなせずに、子供が問題を起こすたびに、その間違った選択や決定がもたらす当然の結果から子供を保護することを「過保護」と定義できると思います。
つまり、子供のまいた種を子どもに代わって親が刈り取ることと言えるかもしれません。
一般的に過保護な親は、結果から子供を守ることに終始するだけで、子供が成長するのに必要な指針や規則を与えているわけではないため、保護されているはずの子供にも自尊心や安定感が見られません。

放任とは、経験の浅い子供が必要としているアドバイスを与えずに、子ども自身が何がよくて何が悪いかを一から自力で理解するに任せることです。 
放任する親は「してはいけないこと」と「しなければならないこと」さえ教えず、たとえ人に迷惑をかけるようなことをしたとしても、それが間違いだと諭すことさえしないため、子供が将来そのような親に感謝したり尊敬したりすることは期待できません。

子供は勢いよく育つ植物のようですから、一見放置しておいても成長できるかに見えますが、親のアドバイスや基準という添え木があるなら、子供は安心して成長できるのではないでしょうか。

私も、いまでは多少自分で考えることが出来る人間になりましたが、小中学生の時は、母親におんぶにだっこで小4までは一緒の布団で寝るほどのマザコンでした。

弊害として高校時代は、どこへも遊びに行かないヒキニートみたいな生活をしていました。

 

次に過保護を経験して痛い目をみた私が過保護をいいとする理由もお話ししたいと思います。

過保護にはいい部分もある

過保護は愛でもあるという事です。

親からすれば、いくつになっても子どもは子ども。運命共同体といっても差し支えないでしょう。してあげたいからしているし、見返りを求めないそれには類まれなる「愛」を感じます。私の場合、行動も制限されていましたが、それも心配あっての事でしょう。それを無理に抑えようとするのは得策ではないですし、「愛」を深く受け取った人間は自己の存在を認める、自己肯定感の強い芯のある人間にもなり得ます。つまり、「過保護=悪いもの」ではありません。

 

 

周りから色々言われて困っている人への解決策を提示して最後終わりたいと思います。

これからどうしていくべきか

 

自身で考えて行動する機会を作る。

何回かに一回でも、子どもが自身で考えて行動する機会を作る。頼ってきた場合は正解ではなく、あくまでヒントだけ出す。正解を出せるかどうかが重要なわけではなく、子どもなりにどう考えて結論を出したのか、そのプロセスが大事。本人にとっての失敗体験もすごい大切。

私の場合、高校生にもなって親に頼っていたわけですが、親も「このままではヤバい」と思ったのか、「自分の事は自分でしなさい」と言うようになりました。

私にとっては、急に「明日からエサは自分で探しなさい」と言われた犬のような感覚で当時はひどく傷つきました。親の冷たさと、そしてこんな年になっても自分一人では何もできなかったんだという不甲斐なさにです。

 

私の親のように0か100ではなく、みなさんには早い段階から徐々に慣らしていってほしいと思います。結果として私も自分で自分の事をするようになったのでいいような気がしますが、急に冷たくされた悲しさはいまだに覚えているからです。

 

 

それが無理であるならば次は

生きる世界を変える。

要は、それがまかり通る世界でのみ生きることを選択することです。「過保護のカホコ」では、どうしても面接で落とされてしまうカホコを慰め「花嫁修業すればいい」と母は言いましたが、ようはそういう事です。

仕事をしない選択も、両親のよほどの余力があれば可能でしょう。そこまではいかないにしても職人の仕事にシフトチェンジすればいいとも思います。集団で行動するのが苦手であれば、個人プレーを最大化すればいいだけですし、内側で世界が完結していれば周りはそれに対して文句は言いません。

職人と言っても堅いもの以外でも、いまは自作のアクセサリーをネットで売ったり、webライターとかだっていうたら個人プレーみたいなところがあります。

そちらを選択する覚悟をきめるのもまた一つの手だと私は思います。

 

また、過保護によって本人の本来のポテンシャルが発揮できていないように見えても、実は生まれながらにしてそれが出来ない人も中にはいます。

自分で考えることが本来苦手なひとに、無理に考えることを強いるのも違うでしょう。

最近では大分浸透してきましたが、成功してる人でもADHDはいますし、苦手な土俵にわざわざ上がる事をしないで得意な土俵で生きていくという選択もぜんぜんありだと私は思います。

 

過保護なくして親離れはない

過保護なくして親離れはない

 

 

あと、「過保護のカホコ」は過保護どうこう関係なく高畑充希がめっちゃ可愛いのでおススメです(笑)

今回はこんなところで

 

それでは、また(^^)/