隣のおっさんがくさい

世に対して不平不満を言いつつも何とか楽しもうと試みる弱者のブログです。

死体の記念撮影

 

 

※話まとまらな過ぎて、うまく言語化できなかったので自分の考えが雰囲気だけでも伝わったら御の字です。うまく言語化できるようになったら、また書き直します。

 

こんにちは、カオナシです。

 

今日は、Twitterで現在物議をかもしている死体画像の拡散について考えてみたいと思います。

 

 

私も、この騒動を見た時は「日本ヤバいな」なんて思っていたんですが、よくよく考えてみると、それはそれで固定観念にとらわれているだけではないかという風にも思えてきたので、今回は自分の考えをまとめるために一つ筆をとらせていただきました。

 

そもそも、この議論の論点は「死体を写真で撮ってネットで拡散するのは倫理的にどうなの?」という所にあります。

 

しかし、これを、理詰めで考えるとなると非常に難しい問題です。

 

と言うのも、人はそもそも昔からゴシップが大好きだからです。昔で言えば、おばさん同士の噂話なんてのがそうです。「あそこの家のお子さんは働いてない」だの、「あそこのお宅の娘さんは子どもがうめないらしい」など、近所の話に限らず、話のネタは仕事先や子供の学校など多岐にわたります。今回の騒動に関しても、それがスマホと言う現代機器を介してエンタメの一つとして消化されているにすぎないように私には思えてなりません。(それはエンタメだけには留まらず時にジャーナリズムというような解釈までされます。)

 

つまり、今の日本だからという事ではなく人は元来そういう性質を持っているという事です。今回は、それがスマホの登場によって元々出来なかったからしていなかったものが出来るようになったことで目に見えて顕在化したという事にすぎません。

 

そして、これは死体にカメラを向ける人たちと、向けない人たちで白黒別れる問題ではないようにも思います。芸能人のゴシップに然り、人は元来人のうわさ話が好きです。つまり、カメラを向ける人たちは、あくまで私たちの延長線上にいるようにも思えるんです。程度の差はあれど

 

 

 

そんな中、写真を撮る人を批判する人を批判する人まで出てきたわけなんですが、これを踏まえると、少なくとも私はどちらの言い分も分かる分なんも言えなくなりました。

 

写真を撮るのを一方的に感情論で押さえつけようとするのは思考停止でダメだけど、中には人の死さえもエンタメとして消化しようとする人たちがいるのも事実なので、それはそれで肯定することは出来ないわけで、、、、

 

こんなことを言うと、以前、芸術を語って天皇の像かなにかを燃やす映像を作っていた騒動(うろ覚え)なんかも思い出しますが、みんなが見えるところでそれをするのはいいのかどうかという話にもなってきます。

 

 

ここまでくると、テレビに引き続きネットでさえも表現を規制する必要が出てきそうなので、時にはネットからも離れることも必要になってくるように私は思います。

 

クレームが入って、どんどん表現の幅がせまくなり今ではクイズとグルメばかりになったテレビしかり、中にはクレームを入れる人たちに「文句があるなら見るな」という人たちもいます。

 

それは、今後ネットにも言えることで今回の事もカメラを向ける人たちに批判を寄せること自体が、無意味な気もしています。いうならば、近所で噂話をするおばさんたちに「それは倫理的にどうなの?」と言っているようなもので、今回はそれがネットを介して行われていたにすぎません。

 

では、あくまで個人で楽しむのは勝手だとしてもそれをネットで拡散するのはどうなのかという事ですが、それは見たくない人は、自分で情報が入ってこないように対処するしかないように思えます。

 

そもそも、現代人がそのように変化を遂げたのではなく、昔から持っていたものがより顕著になったと考えるならば、否定し押さえつけようとすること自体が不可能です。

 

知る人ぞ知る、ポッカキッドなんかもそうです。

知らない人の為に説明すると、ポッカキッドと言うのは世界中の残酷な事件などを紹介しているグロサイトなんですが、それが、グーグルのトップ画面に来るようになり誰の目にも触れるものになったとして、それに文句をいうのは簡単ですが、ただそれに文句を言い続けるのはテレビにクレームをつける人と一緒で「嫌なら見なければいい」という風にも言えます。ただ与えられる情報に対して、文句を言うだけならだれでも出来るわけですから、今後は自分で情報を制限して、いらない情報は、入ってこないようにする知恵もそれぞれでみにつけていかなければいけない時代が今後は来るかもしれません。

 

ですから、今回の事は撮る人も、それを批判する人もそれぞれ考える必要がありそうです。

 

撮る人は撮る人で、倫理観を抜きにして考える事を放棄すれば人間ではなくなってしまう気がしますし。それを批判する人はする人で、元来人はむかしからそうだったということを理解するとともに、ただ口を開けて情報を受け身で入れ続けるのでなく、いやな情報は入ってこないようにする工夫もそれぞれでする必要があるという事も考慮しなければいけないという事です。(お互いに議論することももちろん大切)

 

昔から、野次馬という存在はありましたし、それを変えようとする流れは自然の摂理に逆らっているようにも感じたので、その違和感と共に今回、色々自分の考えを書かせていただきました。

 

つーわけで、私も死体の話を記事のネタにしてる時点で、死体の写真をエンタメとして消化する人たちとなんら変わらないつー事だけは言っておきます。(戒めの意味も込めて)

 

誰が正しくて、誰が間違っててなんてことを弱冠22歳の生臭坊主が、言うつもりはありませんが、思考停止は危険だという事は分かっているので、今後も客観性を持ち続けられるように考え続けていきたいと思います。

 

己の正しさを疑わない事がどれだけ危険なことかも少しは分かっているつもりなので

 固定観念にとらわれて、同性愛を差別する人とか

殺人を正当化した戦争とかね

 

自身では自分が正しいと疑わない分、奇麗事言っている人の方がより質が悪いなんてことも起こりうるしね

 

今回は、こんなところで