前もって言わせていただきますが、この記事は私の考えを垂れ流しにしたもの・自分なりに答えが出ていない、言わば作り途中の迷路(ゴールなし)のような記事なのでそれを留意したうえで読んでいただけると幸いです。
もし、自分が第三者でこの記事を見つけ読んだとしても途中で「結果、なにがいいたいの?」ってなると思うという事だけはあらかじめ言っておきます。
みなさん、こんにちは
飲食店とかで3人でカウンター席に座る場合、真ん中にはなりたくないカオナシです。
これ、生まれて今まで全然考えたことなかったんですけどこれからは避けたいところです。
というのも、自分が話のターンになったときに左右どっちを向いたらいいか分からんくなるんですよね。交互に見ながら話をするにしても「こっちを向き過ぎだから、そろそろこっちへ向けよう」とかそんな器用なこと出来ないと思ったんです。
こんなの別に誰も意識してないから気にするのが無駄って思う人も多いと思うんですけど、そんな人は、ちょっと今までの自身の過去を振り返って考えてみてほしいんです。
今までに、複数で会話しているときに声を向ける矢印が偏ってる人に遭遇したことはありません?仲の良さによっても起こりえるんですが、なんか伝言ゲーム?みたいになるあれです。
3人でしゃべっているように見えてA→B→CやA→B←Cみたいな。
Bがいなかったらこの場の会話成り立たないんだろーなー的なあれ!
Aである私はCにも振ってみたりもするんですけどその返答もBを介してというか、Bに向かって話しているように感じた状況が人生の中で何度かありました。
相手からすれば、わざとではないのでしょう。
こちらを避けるそぶりもありませんし、2人きりの時であれば会話も全然できましたし。
無意識的に好意の深さによる優先度がここに表れているんだろうと私は思ったわけなんですけど、思った以上にあれ、傷つきます。
体の向きやら、アイコンタクトもそうですけどスマホの画面を見せつける時もそうです。「この写真見て」って片割れに見せるんだけどこっちにスマホが向くことはありません。そんなときは、「どれどれ~」とさりげなく割り込んで見たこともありましたが、あれも正直無意識でやっているのでしょう。
こういう時は単純に私が嫌われている可能性についても視野に入れて考えてみたりもするんですが、それについてもいまいちピンとこないことが多いです。(話をしたくないかと思えば向こうから話しかけてきたり等)
そんなわけで、「あぁ、無意識でやってるのか」と私はひとつ納得することにしたわけですが、それはそれで悲しいのは変わりませんし、悪気がないからこそ、さらに傷つくこともあります。
だからこそ、最初の話に戻りますが私が真ん中になったときに、左右の相手に自分と同じ思いはさせたくないと思うんです。当然無意識なわけですから、私自身も例に挙げた人たちのように無意識に優先度をつけて片方を贔屓している可能性が十分あり得ます。
だからこそ、それは避けたい。たとえ無意識だとしても、私は例に挙げた人達が気にくわない対象であることはたしかであり、自分もそうなりえるなんて考えたらほんとに耐えられないわけです。
だから、せめて周りにそんなことを思わせる当事者にはなりたくない。
そういうわけで、私は今後真ん中に座る事は避けます。(決意)
とりあえず、言っておきますが上記のエピソードはこの記事のテーマと全く関係ないです。
ほんとうに、ただ書きたいことを読みやすさ等々を無視して思いつくまま書いているので、読んでいる人からすればほんとに苦痛だと思います。
「カオナシはもっと話をするときに要約するべき」と言われたこともあって気を付けてはいるんですけど、どうにも考えてしまうと止まらないんです。
伝えたいという思いが先行しすぎるあまりに、説明に説明を加えさらにその説明を理解してもらうためのたとえ話とかをしてしまったりするんで、相手は話のどこに焦点を当てたらいいかわからなくなることが多々ありました。
でも分かっているのに辞められないのは、たまにある、相手が自分と同じような事を考えていて話が爆発的に盛り上がる現象に対する快感が忘れられないからだと思います。マイナーな趣味の仲間を見つけたようなあの一体感といいますか。
「カオナシは考えすぎだよ」っていうひともいました。
でも、議論ほど楽しいものはないと高校時代の私は思いましたしそれは今後も変わらないのでどうしようもありません。
それについて考えること自体無駄だと思う人からすれば「どっちでもよくない?」とか散々言われてきましたし。「ひとそれぞれ」というひともいましたけど全然面白くない。こっちはそんなことわかったうえで聞いてるわ、はげ。
「そうかもねー」って軽く乗ってこられるのも全然面白くない。
実に、面白くない。
聞いてほしい議論があるよ~♪
いつか言いたかった議論があるよ~♪
それは特別なことなんかじゃないんだ~♪
そう それは難しいことなんかじゃないんだ~♪
ただ 議論を広げて~♪
ただ 答えを待ってたんだ 答えもなく~♪
いま僕は行くのさ 議論の向こう側へ~♪
僕の向こうへと~♪
さぁ 飛び立とう~♪
出来ることなら否定して欲しいし、へ理屈でもいいんで自分を納得させて欲しいんです。別に相手を論破したいわけでもないということは言っておきます。
自分の中で答えをだすにあたって、どうしても自分にはない発想が欲しいんですよね。
そんなわけで、私はたまに議論を吹っ掛けます。
ここまで話しましたけど、まだまだ本題には入れてませんね。。。
ここで、本題に戻して友人の定義について考えたいんですけど、これがほんとに難しい。いくら、議論をまわりに振ってもこの議題って楽しく議論できた試しがないんです。(それには触れちゃいけない暗黙の了解でもあるんですかね)
そもそも、なぜ友人の定義について考えるかってとこから考えていきたいと思います。そもそも、SNSを見ていると「友達・親友が欲しいだとか」よく見かけるわけです。
これをみていて、そもそもこの人たちって友達の定義自体あいまいで分かってない人たちなんじゃないかなって私は思ったわけです。
少なくとも自分もそうですし。
例えば彼女が欲しいとかであれば、告白して付き合うってなったら彼女みたいな一応の指標があったりしますが友人や親友ってそもそもがすごい曖昧なものな気がするんです。
自分の中で答えがないものを求めても、手に入ったという実感は湧かないと思いますし。
だからこそ、せめて自分の中だけでもこれは友人であると定義づけるものが必要だと思い友人の定義について考えるに至った次第です。
中には何でも話せるのが友達っていう人もいたんですが、少なくともこれだけではないでしょう。関係性が遠いからこそ話せることもありますし、占い師に何でも話せるから友達という事でもないことは明白でしょう。
つまり、これだけでは何か足りていないことはわかります。
次に結婚式に呼ぶかどうかみたいなのも考えました。
しかし、自分の場合友人だからこそ祝ってほしいという思いは別にありません。
もちろんお祝いされたら嬉しんですけど、そもそも結婚式って祝われることに能動的じゃないですか?サプライズとかで受動的に祝われるのとは別で、こっちから「祝ってや~」っていってるようなもんな気がするんですよね。
そうすると仲がいい人ほどわざわざ呼ぶのは忍びないという思いも湧いたので、これは惜しい気もしつつピタッと来る定義には感じませんでした。
ちなみに、挙げるにしても海外で家族だけで挙式がいいななんて思ったりしてます。(せめて家族を入れるのは相手の家族に対する礼儀というか)
次に自宅に泊める・二人きりで遊びに行くで考えてみます。
自宅に泊めることにおいてはそれほど仲が良くなくても泊めれる人もいるでしょうから難しいところですが、ひとによっては一つの目安としてはナシではないのかもしれません。個人的に2人きりでも気まずくないかどうかというのも重要な気がしたんですけど、仲が良いとおもっていてもどうにも沈黙が怖いのか「何か話すことないかなー」と私自身思う事がしばしあるので、これもどこか惜しいとこです。
宮迫風にいうとオフホワイト。
相手がゲロ吐いたときに片付けられるかとかも考えてみたんですけど、これは私自身仲が良くないであろう人でも片付けれちゃうんで前提として違いました。
先ほどまでは演繹法で考えていましたが、ここはひとつ帰納法的に考えてみます。
唯一私の中で親友を挙げるとすれば浮かんでくるのが高校時代に一人だけいます。
なぜ、そいつであるか考えられる答えとしては、考え方が自分に似ているってことですかね。
趣味嗜好もそうですし、議論も好きです。面白い奴でもありました。
とりあえず、こんなところで。
てかほんと、もしここまで読んだ人がいたとすると頭おかしいじゃないかって思いますし、いい友人になれそう。
それでは、また(^^)/